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コース:京都駅~三十三間堂~泉湧寺~東福寺~伏見稲荷神社~竹の下道~琵琶湖疏水~稲荷公園~鴨川~JR/京都駅 16Km | |||||
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久し振り(と感じる)のウオーク。 今日、嬉しかったのはS木さんそしてW林さんに会えたこと! |
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9:25 |
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スタッフの方々が集合場所へのご案内
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10:00 | コースリーダーの説明、準備体操をした後京都駅をスタート。
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10:04 | スタートしてすぐ、S木さんとバッタリ。 ここんとこお顔が見えないので心配していた。 お話しすると「ある病気で手術・入院・静養していて今日が4ヶ月ぶりの初ウオークだ」そうな。 お元気に快復されて何より・・・!
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10:28 | 三十三間堂、南大門を素通りする。 本尊の千手観音立像・座像は湛慶作で見事なものらしい。
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10:34 | 今熊野神社 当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。 後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、 そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。 当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。 その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、 そう何回も行けるわけではありません。 そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。 当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、 紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。 (今熊野神社のHPより)
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10:58 | 御寺泉湧寺 仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。 その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る 歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみささぎ)」と名づけられた。 こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。 泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。
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11:20 | 東福寺 摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、 また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、 「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。 しかし、大きなお寺・境内・建物ですね。 |
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11:47 | 伏見稲荷 いわゆる、お稲荷さんは全国に30,000社もあるそうな。 その総元締めがここ伏見稲荷だ とか・・・ 毎年正月3が日に250万人の参拝客で賑わうそうな。
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11:55 ~ 12:30 |
千本鳥居を通り抜けたところで昼食・休憩。 と、石垣の上で食事をしていたら目の前数メートルのところで 誰かが崖から滑り落ちた。 助けあげられた人物は・・・、なんと! W林さんだ。 ワタクシの中学時代の同級生! 後で「なんで助けてくれなかったの!!」と叱られた。 |
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12:30 | 午後の部、スタート。 嘘か誠か? 一番細い鳥居で30~35万円と聞いたが・・・。 |
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12:45 | 竹の下道
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13:36 | 竹の道を終えると琵琶湖疏水に沿って鴨川に向かう。 川沿いを歩いていると少~し涼しい。 秋風を感じる。
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14:20 14:30 |
北岩本児童公園でスタンプを貰って 京都駅で解散。
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14:50 ~ 15:45 |
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16:30 ~ 17:15 |
西大寺駅で第2反省会(A田、N川氏と) | ||||
18:35 | 帰着。 | ||||
オツカレサンでした。 加齢とともに疲労度が大きくなってきました。 皆さんに付いて歩くのが精一杯。 本日のドアtoドアの歩数:約32,738 歩。
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次回行事=9月25日(金)、かつらぎ古道:JR/近鉄・御所駅 10:00 集合 |